FAZER LOGIN黒狼の牙が、喉元へ迫っていた。 セレナは地面に倒れたまま、息を止めた。 逃げなければ――そう思うのに、身体が動かない。 肩のすぐ横には、黒狼の太い前足がある。 ほんの少し爪が動いただけで、土が深く抉れていた。 この獣が本気になれば、セレナの細い首など簡単に噛み砕かれるだろう。 黒狼の息が、頬にかかる。 血と毒の匂いが混じった、熱い息だった。 金色の瞳が、セレナを見下ろしている。 怒り、警戒、そして痛み。 その全てが、鋭い光となって宿っていた。 セレナは、震える手を胸元へ引き寄せた。 黒狼の牙は、喉元のすぐ近くで止まっている。けれど、噛みつかない。 セレナが逃げないからだろうか。それとも、逃げる力がないと分かっているからだろうか。 ――分からない。 けれど、まだ生きている。 それなら、まだできることがある。「……怖くないわけではありません」 声が震えた。 それでも、セレナは黒狼から目を逸らさなかった。「でも、ここで逃げたら、あなたは死んでしまいますから」 その言葉を言った瞬間、黒狼の瞳が、わずかに揺れた気がした。 人間の言葉が分かるのかどうかは分からない。 けれど、その喉の奥で鳴っていた唸り声が、少しだけ弱まった。 セレナはゆっくりと手を動かす。 急に動けば、また牙を向けられるかもしれない。 だから、黒狼に見せるように、少しずつ。「傷を押さえますね」 地面に落ちていた布を取り、矢を抜いた傷口からは、血が流れていた。 黒い毛並みを濡らし、草の上へ落ちていく。 このままでは出血が多すぎる。 セレナは上体を起こした。 黒狼の前足が、ほんの少しだけ横へずれる。 逃げ道を開けたのか。 それとも、力が抜けただけなのか。 しかし、今はどちらでもよかった。 セレナは、黒狼の肩へ布を押し当て、黒狼の身体がびくりと震えた。 牙がむき出しになり、セレナの指先も震えた。 それでも、手は離さない。「すぐに終わらせます」 自分でも、頼りない声だと思った。 けれど、何も言わないよりはましだった。 水筒を開け、傷口の周囲を少しずつ洗う。 毒に触れて変色した血が流れ落ち、土へ染み込んでいった。 紫がかった色――やはり、毒が回っている。 セレナは薬草袋を開いた。 先ほど水で戻した薄紫の根を指で潰し、傷
血の匂いは、木々の奥から流れてきていた。 セレナは水筒を抱えたまま、その場に立ち尽くした。 行ってはいけない。 頭のどこかで、冷静な声がそう告げている。 夜の森で血の匂いがする場所など、危険に決まっている。 怪我をした獣がいるのかもしれない。 魔物が獲物を食らっているのかもしれない。 近づけば、自分も襲われる。 それくらい、セレナにも分かっていた。 けれど、低い唸り声は、怒りだけではなく苦痛を含んでいるように聞こえた。 苦しんでいる。 誰かが、あの奥で。 セレナは、胸元の薬草袋を握りしめた。 逃げるべきだ。 そう思うのに、足は動かなかった。 離れで暮らしていた頃、クララが言ったことを思い出す。「お嬢様、怪我をした獣に不用意に近づいてはいけませんよ。痛みで我を忘れて、人を傷つけることがありますから」 幼いセレナは、本を抱えたまま頷いた。「では、見つけても助けてはいけないのですか?」 クララは困ったように笑った。「助けたいと思うことは、悪いことではありません」 それから、少しだけ声を落とした。「ただし、ご自分の命も大切になさってください」 自分の命。 セレナは、その言葉を思い出して、ほんの少しだけ苦笑した。 今夜、王国に捨てられた命だ。 家族も、王太子も、神殿も、誰も惜しまなかった命。 それを大切にするとは、どういうことなのだろう。 また、低い唸り声が聞こえた。 今度は、先ほどよりも弱い。 セレナはゆっくりと息を吸い、音のする方へ足を踏み出した。 枝を踏まないように気をつける。 茂みを手で押し分けるたび、濡れた葉が指先を冷やした。 血の匂いは強くなっていく。 同時に、別の匂いもした。 苦い薬草のような、鼻の奥を刺す匂い。 毒。 そう気づいた瞬間、セレナは足を速めた。 森の中の開けた場所に出た。 月明かりが、わずかに差し込んでいる。 そこに、巨大な黒狼が倒れていた。 セレナは息を呑んだ。 狼と言うには、あまりにも大きい。 立ち上がれば、セレナの背丈を優に超えるだろう。 黒い毛並みは夜の闇に溶け込むほど深く、けれど月明かりを受けた部分だけが青みを帯びて光っていた。 前足は太く、爪は鋭い。 口元から覗く牙は、獣ではなく魔物のものに見えるほど大きかった。 その巨体が、地面へ横たわっ
馬車を降りると、冷たい夜気が頬を刺した。 王都の空気とは違う。 湿った土の匂いと、濃い木々の匂い。 そしてどこか鉄に似た、鋭い魔力の気配。 目の前には、魔物の森が広がっていた。 高く伸びた木々が、月明かりを遮っている。 森の奥は黒く沈み、道と呼べるものはほとんど見えない。 風が枝を揺らすたび、葉擦れの音がざわざわと広がる。 まるで、森そのものが低く囁いているようだった。「……エヴァレット公爵令嬢」 ローウェンの声がした。 振り返ると、彼は馬車の横に立っていた。 顔色は悪く、けれど、何かを決めたように、手に持っていたものを差し出してくる。 水筒と、小さな毛布だった。「せめて、これを」 セレナは、差し出されたものを見つめた。 水筒は使い込まれている。 毛布も上等なものではなく、騎士が野営に使うような厚手のものだった。 けれど、森へ一人で入るセレナにとっては、どちらも貴重なものだ。「命令では……」 ローウェンは、そこで言葉を詰まらせた。 言いにくそうに視線を落とす。「最低限の荷物をお渡しする必要もないと、言われております」 セレナは、その意味を理解した。 森へ送るだけ。 生き延びるための準備など、必要ない。 王国は、セレナが森で死ぬことを前提にしているのだ。 それでも、セレナは水筒と毛布を受け取った。「ありがとうございます」 ローウェンは、苦しそうに顔を歪めた。「礼を言われるようなことではありません」「いいえ」 セレナは首を横へ振る。「とても助かります」 水があり、そして身体を冷やさない毛布がある。 薬草袋も持っている。 それだけで、何もないよりはずっといい。 幼い頃に読んだ本には、森で夜を越すために必要なことが書かれていた。 水を確保すること。 体温を奪われないようにすること。 不用意に火を焚かないこと。 血の匂いや食べ物の匂いを広げないこと。 実際に森へ入ったことはない。 けれど、何も知らないよりはましだと思いたかった。 ローウェンは、剣の柄へ手を置いたまま、セレナを見つめていた。 何かを言おうとしている――けれど、言葉にならない。 彼の後ろでは、御者が怯えた様子で馬を押さえていた。 馬も、森の気配に落ち着かないのだろう。 何度も地面を蹴り、鼻を鳴らしている。 遠くか
王宮の裏手には、すでに一台の馬車が用意されていた。 夜会へ向かう貴族たちが使う華やかな馬車とは違う。 飾り気のない黒塗りの車体で、窓には厚い布がかけられ、外から中の様子は見えないようになっている。 まるで、人目につかないうちに何かを運び出すための馬車だった。 セレナは、王宮の裏口に立ったまま、その馬車を見つめた。 少し離れた場所には、鎧をまとった騎士が一人いる――その顔に見覚えがあった。 王宮で何度か姿を見かけたことがある。 王国騎士のローウェン。 彼はセレナと目が合うと、わずかに身体を強張らせた。「エヴァレット公爵令嬢」 呼びかける声が、ほんの少し掠れていた。「こちらへ」 セレナは、静かに頷いた。「はい」 森へ送られることは、もう決まっている。 逃げようとは思わなかった。 逃げたところで、行く場所などない。 公爵家へは戻れない、王宮にも居場所はない、そして頼れる親族もいない。 そもそも、逃げるという選択肢を思い浮かべること自体が、セレナには難しかった。 幼い頃から、言われたことに従うよう育てられてきた。 ――離れから出るな。 ――人前に姿を見せるな。 ――銀髪を隠せ。 ――余計なことを言うな。 そうしているうちに、自分で何かを選ぶという感覚が、少しずつ薄れていった。 ローウェンが馬車の扉を開ける。 セレナは乗り込むと、内部は狭く、簡素だった。 向かい合わせに置かれた硬い座席、足元には小さなランタンが一つ。 公爵家の令嬢を乗せるには、あまりにも質素な馬車だった。 けれど、セレナは何も言わなかった。 もう、公爵家の令嬢ではないのだから。 婚約を破棄され。 王家からも見放され。 今夜のうちに、森へ捨てられる。 ならば、自分にふさわしいのは、この程度の馬車なのだろう――ローウェンも向かい側へ乗り込んだ。 扉が閉まり、外で御者が鞭を鳴らすと、馬車はゆっくりと動き始めた。 石畳を踏む車輪の音が、暗い車内へ響く。 セレナは、膝の上に置いた薬草袋へ手を添えた。 古びた布の感触が、手のひらへ伝わる。 王宮を離れても、銀髪を隠す灰色の布はそのままだった。 外してよいとは、誰からも言われていない。 森へ向かうだけなのだから、もう隠す必要などないのかもしれない。 それでも、セレナは布へ触れようとはしな
夜会が終わるよりも先に、セレナは公爵家の控室へ戻された。 大広間を出る間も、背中には無数の視線が突き刺さっていた。 哀れむような目。 恐れるような目。 そして、安堵したような目。 ――銀髪の娘が森へ送られる。 これで災厄は鎮まる。 これで自分たちは助かる。 誰もが、そう信じようとしているのだろう。 控室の扉が閉まると、楽団の演奏も、貴族たちの囁きも遠くなった。 室内には、公爵家の者だけが残された。 家族が四人そろって同じ部屋にいる。 それ自体が、ひどく珍しいことだった。 幼い頃から、セレナは屋敷の離れで暮らしていた。 家族と同じ食卓につくこともない。 誕生日を祝われることもない。 季節の行事に呼ばれることもない。 たまに父や母と顔を合わせることがあっても、それは叱責されるときだけだった。 だから、今この部屋にいる四人を見ても、家族という感じはしなかった。 ただ、自分の処分を確認するために集まった人々。 そんなふうにしか思えなかった。 父は窓際に立ち、無言で外を見ていた。 王宮の庭園には、夜会のために灯されたランタンが並んでいる。 柔らかな光が花壇を照らし、遠くでは馬車の車輪が石畳を踏む音が聞こえた。 いつもと変わらない夜だった。 少なくとも、王宮にいる人々にとっては。「――お父様」 セレナは、静かに呼びかけた。 父はすぐには振り返らなかった。 何を言えばよいのか、自分でも分からない。 森へ行くことは、すでに決まっている。 婚約も破棄され、大神官も王太子も、大勢の貴族の前でセレナを災厄だと認めた。 今さら、父が助けてくれるとは思っていない。 それでも、何か一つくらい言葉をかけてもらえるのではないか。 そんな期待が、ほんの少しだけ残っていた。 怖くないのか? 何か必要なものはないか? せめて、気をつけて行きなさい。 たとえ形だけでも。 娘を森へ送り出す父親なら、何かを言ってくれるのではないか。 父は、ゆっくりと振り返った。 けれど、その顔には悲しみも迷いも浮かんでいなかった。「公爵家の娘として、最後くらい役に立ちなさい」 ただ、それだけだった。 セレナは、返事をするまでに少し時間がかかった。 最後くらい――その言葉が、胸の奥へ沈んでいく。 これまで何一つ役に立っていなかったと
「セレナ・エヴァレット」 王太子アルベルトの声が、大広間へ響く。 楽団の演奏は止まったままだった。 貴族たちは誰一人として動かない。 誰もが息を潜め、これから告げられる言葉を待っている。 壁際に立つセレナへ、無数の視線が向けられていた。 銀髪の娘が、自分たちの代わりに森へ差し出される――と言うような視線を向けて。 セレナは、灰色の布の内側でそっと息を整えた。 大神官ベルンハルトから、森へ行くよう命じられた。 リリアーヌから、国民のために耐えられるかと問われた。 そして今度は、アルベルトが自分を見ている。 ――婚約者としてではない。 役目を終えた道具を見るような目で。「お前との婚約を、ここに破棄する」 驚きの声は上がらなかった。 誰もが、予想していたのだろう。 あるいは、最初から決められていたことなのかもしれない。 セレナだけが、知らされていなかった。「殿下……」 名を呼ぼうとして、声がわずかに掠れた。 何を尋ねればよいのか、自分でも分からなかった。 なぜですか、そう問う必要があるのだろうか。 答えは、すでに分かっている。 アルベルトは、セレナの言葉を待たずに続けた。「銀髪の女を王妃に迎えれば、国民が不安になる……近頃の魔物被害を見れば、なおさらだ。王家は民を導く立場にある。民が恐れる者を、未来の王妃として置いておくわけにはいかない」 それはある意味、もっともらしい言葉だった。 王太子として、国を思っているようにも聞こえる。 けれど、セレナの胸には何も響かなかった。 アルベルトは、最初から一度もセレナを王妃として見ていなかった。 十二歳の頃、婚約が決まった日のことを思い出す。 屋敷の離れへ、父オズワルドが珍しく足を運んできた。 父がセレナの顔をまともに見たのは、あの日が初めてだったかもしれない。「王家がお前を引き取ることになった」 それだけを告げられた。 喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、幼いセレナには分からなかった。 ただ、父の顔に安堵が浮かんでいたことだけは覚えている。 ようやく、この娘を手元から離せる。 そう思っているような顔だった。 後になって、使用人たちの噂話を聞いた。 銀髪の娘を公爵家だけで抱えておくのは危険だ。 万が一、災厄が起これば、公爵家だけでは責任を負えない。
大神官ベルンハルトが大広間の中央へ進み出ると、誰もが息を潜めた。 白い法衣は、床に届くほど長い。 胸元には神殿の紋章をかたどった銀の飾りが下がり、蝋燭の光を静かに返している。 痩せた顔立ち。 整えられた白髪。 穏やかな笑み。 その姿だけを見れば、長年にわたって王国を支えてきた敬虔な聖職者に見えた。 だからこそ、人々は彼の言葉を疑わない。「皆様も、すでにご存じのことでしょう」 ベルンハルトは、広間全体へ語りかけるようにゆっくりと言った。「近頃、魔物の森の周辺では異変が続いております」 それを聞いて、ざわめきが広がる。 先ほどまで囁かれていた話題が、大神官の口から改めて
大広間へ足を踏み入れた瞬間、セレナは肌に突き刺さるような視線を感じた。 王宮の夜会は、いつも華やかだった。 高い天井には、無数の蝋燭を灯した大きなシャンデリアが吊るされている。 磨き上げられた床には光が反射し、楽団の奏でる優雅な旋律が広間全体を満たしていた。 色鮮やかなドレス。 宝石を散りばめた髪飾り。 上等な酒を手に談笑する貴族たち。 ――誰もが笑っている。 けれど、セレナが姿を見せた途端、その笑い声はほんの少しだけ揺らいだ。「あれが……」「ええ。エヴァレット公爵家の」「まさか、王宮へ連れてくるなんて」 聞こえないふりをすることには、慣れていた。 セレナは灰色の
「その髪が見えないようにしなさい」 冷たい声とともに、灰色の布が頭から被せられた。 薄暗い控室の鏡に映る自分の姿を、セレナは黙って見つめた。 彼女の腰まで届く銀髪は、布の内側へ押し込められている。 何本かこぼれ落ちた髪を、侍女が慌てて拾い上げ、見えないように隠していく――まるで、人目に触れてはならない汚らわしいものを扱うような手つきだった。「今夜は、リリアーヌの晴れの日なのだから」 鏡越しに母親であるマリアンヌの姿が見えた。 彼女は金色の髪を美しく結い上げ、淡い水色のドレスをまとっている。 社交界で称賛される公爵夫人らしく、その姿には隙がない。 ――けれど、母はセレナの名前







